非決定的なニュートン力学から自由意志を眺めてみる。
1. 量子力学と自由意志
量子力学的な非決定性が、自由意志の存在にあまり寄与しないっぽいということは、たまに言われている。
例えば、戸田山(2014)では、量子論が自由意志の存在に寄与しない理由を二つ挙げているが、その中の二番目の理由として、以下のようなことを書いている。
私たちは脳の中に量子サイコロをもっていて、それを振りながら行為をしているとしよう。その意味で、私たちの行為はたしかにあらかじめ決まっているわけではないとしよう。量子サイコロの目の出方次第で、私は他のように行為することもありえた。
しかし、だとすると、私が何をするかは偶然に任されていたことになる。単なる偶然によって生じた行為は、自由な行為と言えるだろうか。さらには、単なる偶然によって生じた行為にどうして責任をとらねばならないのだろうか。コンビニ強盗の犯人が、「オレのせいじゃない。オレの脳内の量子サイコロのせいだ」と抗弁したらどうしよう。というわけで、量子力学的非決定性は、自由意志にリアリティを与える助けには(少なくともそれだけでは)ならないと思う。*1
(...)決定されていない行為でも、それが偶然の産物なら自由だと言いたくない、という直観がある。*2
非決定性が確率分布に従うようなものとして与えられていて、行為がその分布に従うランダムなものだったとすると、それは自由な行為とは言えないんじゃないかということである。*3
2. 行為者因果性
自由意志概念に「行為者因果」が必要だという立場が存在する。その中でも行為者因果を強めに取る考え方の場合、科学と両立しそうにないような概念を想定することがある。*4
戸田山(2014)のp.303では、
他の何かの結果として生じるのではなく、しかし、行為の原因にはなるもの。因果の連鎖がそこからスタートするもの。そういうものがないと自由がないと彼らは考えるわけだ。これが行為者因果である。
と書いている。
物理世界の中に存在しないような「何か」によって、物理運動が生じる(しかも、上で見たように量子的なランダムではない)なんてことは、あり得るのだろうか。
本稿では、(人間の脳でそんなことが起こっているとは特に思っていないが)「あり得る」ということを主張したい。
3. 雪崩のモデル
谷村さんが2021年の対談で挙げられていたニュートン力学における例を紹介したい*5。
これは、坂道を滑り落ちながら巨大化する雪塊をモデル化したもので、雪塊は、
という式で表されるような巨大化の仕方をするものとする。
このとき、斜面方向の重力加速度をとすると、運動方程式は
と表される。
初期条件を、のときであるものとすると、この運動方程式の解として、
すなわち、雪崩が発生しないという解が存在することが分かる。
しかし、別解として、において
という解も存在する。
つまり、このモデルで表されている雪塊の滑落は、
起こらないかもしれないし、起こるとしてもいつ起こるか分からない
ということになる。
ニュートン力学においても、このような意味での非決定性はあり得るということになる。
4. 雪崩のモデルと自由意志
雪崩のモデルの非決定性から、自由意志について言えることがあるかどうか考えてみる。
雪塊が滑り落ちるタイミング(または滑り落ちるかどうか)は、初期条件からは決定できない。
そのため、雪塊の挙動については、(極端なことを言うと)物理世界の外からGOサインが出ていたとしても、ニュートン力学に反するわけではないことになる。
つまり、雪崩のモデルの非決定性は、行為者因果と両立しうる。
したがって、結構強い意味での自由意志概念も、ニュートン力学と両立する可能性があるということになる。
例えば、微分方程式でググると、(雪崩のモデルとはちょっと違う形だが)「クレローの方程式」のような特異解と一般解を持つものが出てくる。
こんな感じの特異解と一般解を持つ非線形微分方程式たちの中の一部が、雪崩のモデルで生じたような非決定性を生み出していると思われる。
ただ、何をすると複数解になるのかは全く知らないので、シュレディンガー方程式とかで同じことをやる(=確率分布の時間発展が複数解になる)にはどうすればいいかとかは分かりません。
そんななので当然、人間の脳内にこのような機構が存在するかどうかについても私には何も言えることはない。なので、現実の自由意志に関する主張も何もできない。
あくまで、完全に不可能とまでは言えないというだけである。
(個人的には、物理世界の外から介入してくる神のごとき意志があるとは思っていない。そもそも、決定論とすら自由意志は両立すると思っている両立主義者だし・・・)
5. まとめ
非決定性と言っても種類があるので、自由意志論を議論するときには区別するとよいと思います。