フィクションの使い方と使う人のこと

フィクションの影響についてどう考えればいいのか分からない
・・・という話

 

1. フィクションの影響

フィクションの中には、何らかの教訓を含むものがある。

例えば、イソップ童話とかが道徳的な教えを含んでいることは明らかだと思う。あとは、『荘子』の「混沌」も、余計な手出しによって悲惨な結果を生むというような教訓が読み取れるだろう。

そのような教訓は、実践的三段論法の前提のように機能することが予想される。したがって、話から教訓が読み取れて、それに共感を抱く場合、フィクションは我々の行動に影響を与えるということになるだろう。

 

・・・ということを認めると、イソップ童話の「ウサギとカメ」のように、登場人物が人間ではなかったとしても、そのような影響は存在すると考えることができる。そうでなければ、「『ウサギとカメ』のようだ」のような例え話を持ち出す人はいないはずなので*1

 

昔、dアニメストアの企画に「人生で大切なことはアニメが教えてくれた」というものがあったが、これもフィクションが人生に影響を与え得るということを、多くの人がもっともらしいと考えている根拠のひとつと言えるだろう。

 

・・・ということで、フィクションが我々の行動に影響を与えるというのは、たぶんあるだろうということにしておく。

 

2. フィクションの影響?

一方で、作品から読み取られる影響は、作者の想定したものに限られないということもあり得る。有名な例として、湯川秀樹は混沌から素粒子理論のヒントを得たとされている。*2
荘子は、当然素粒子理論を知らないはずだし、「混沌」も現代の物理学に示唆を与えることを意図して書かれたものではないはずである。

 

したがって、あるフィクションから、作者の意図した内容と異なる影響を読み取るというようなこともあり得るということになる。古い作品が現代において、新しい光を浴びるというようなことは、たまーにある。

が、どのような教訓でも読み取れるかというと、それもたぶん正しくない。極端なことを言えば、普通「ウサギとカメ」からは、"努力の無意味さ"を読み取ることはできないだろう*3

 

つまり、フィクションが読者に与える影響は、一定のものではないかもしれないが、全く無軌道という訳でもない。フィクションの側において読者に与える影響には、「こういう方向性の影響を与えやすい」みたいな傾向があるだろうし、一方で読者の側も、本人の性向や嗜好に応じて「こういう方向性の影響を読み取りやすい」のような傾向もあるだろう。なので、「良い影響を残しやすいお話」+「悪い読解しかできない読者」の組み合わせによって、「悪い教訓」が生み出されるみたいなこともあり得るということになる。


さらに悪いことに、人間には確証バイアスというものがある。Wikipediaだと「仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向」を指すとしている。

ja.wikipedia.org


ここまでのフィクションについての話を考慮すると、読者は、自分の好む見解を支持するものとしてフィクションを読む可能性が出てくる。読者自身が好む見解を、フィクションの側において拒否できない*4ならば、読者はそれを教訓として読み取ってしまう可能性がある。この場合、フィクションの影響によって読者の行動が変化したように見えるかもしれないが、実際には読者自身の傾向が行動に反映されただけだったりする。

 

まとめると、フィクション側から我々に与える影響というものは存在する一方、フィクションを持ち出して何事かを言おうとしているように見える場合であっても、実のところ、本人の傾向(人の善さだったり、性格の悪さだったり)が反映されているだけだったりする可能性もあるということになる。

なので、フィクションを使って誰かをディスるというのは、単に自分の露悪趣味を披瀝しているだけであるかもしれない。仮に当該フィクションに露悪的な部分が含まれるとしても、それによって必然的に読者の性格が悪くなるとは言えないかもしれない。しかし、嬉々としてそれらを引用するような人は、(作品に関係なく)性格の悪い人間だとは言えるだろう。*5


3. 結論

画像リプ、やめよう

 

 

 

 

 

 

4. 追記(2024/04/16)

こんな論文を見つけました。

伊勢田哲治 (2021)「フィクションは理由つきの主張を行うか」Nagoya journal of philosophy Vol.15(2021), pp.14-32

こんなウサギとカメがどうとか言っている駄文を書く前に、この論文を探すべきでした(後悔)。ポール・グライスについても調べてみたいと思います。

 

おわり

 

 

*1:聞く人にも言う人にも効果が無いので

*2:実際のところ、それがどのくらいクリティカルだったのかは知らないが

*3:というか、どんな読解をするとそのような含意が得られるか想像できない

*4:上の註で挙げた「『ウサギとカメ』において“努力の無意味さ”を読み取ることはできない」のような、「そのような読み方はあり得ない」という主張ができないという想定している

*5:そういう人が創作者側にまわって、露悪的な作品を作って支持を集めて・・・みたいな連鎖が起こった場合については、考えたくないので今回はスルーする