悪趣味な趣味を楽しむ

一般的に言って、自分の趣味はあまり良くないと言えます。

 

ちらっと問題なりそうだったアレとか、おおっぴらに言いづらいアレとか。

みんな大好きなアレやコレです。

 

気付くとTwitterでよく分からないことになっていたりするのを見て、ただただ哀しさを感じています。


悪趣味な趣味を楽しむことは悪いことなのでしょうか。

悪いことには悪いんでしょうが、どのくらい悪いんでしょうか。

特に、悪趣味なフィクションを楽しむことについて考えてみたいと思います。

 

1. ユーモアの倫理

まずは、『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』の「差別的な冗談を面白いと感じるのは悪いことなのか?」を参照してみる*1

 

原は、差別的なユーモアの悪さについて、スマッツの論文を紹介しつつ、以下のように述べている。

例えば、人を馬鹿にする冗談で笑うことは、ある種の侮辱として働くかもしれません。人種差別的な冗談で笑うことは、人種差別をしても良いという暗黙のメッセージを発しているかもしれません。

ユーモアのセンスは、それが原因となってこのように有害な笑いを生じさせることになるのであれば、その分悪いのだ、とスマッツは主張するのです。

差別的なユーモアで笑うことは、必ずしもその差別を是認していることにはならないが、それでも有害な要素を含むとしている。


別な資料として、Nathan Miczo"The ethics of news media reporting on coronavirus humor"を見てみると、どうやらde Sousaが、差別的なユーモアで笑うこと=その差別を是認していることと主張し、それに対して、必ずしもそうは言えないんじゃない?という議論がなされたようである*2

で、差別の是認はしてないかもしれないけど、それでも別の観点から見て有害ではあるよねということを何人かの人が言っているらしい。


2. 悪口の悪さ

次に、『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』の「悪口はどうして悪いのか?」を参照してみる*3

ここでは、悪口の悪さを「危害説」「悪意説」「劣位化説」の3点から検討し、その中で「劣位化説」をオススメしている。

 

理由として、危害を与えていない・悪意が無いような悪口もあり得るということが挙げられている。で、「悪口が悪いのは、人間同士にランクの上下や優劣関係を作ることが良くない」としている。

 

個人間には実際のところ、身体的特徴や能力の差異があります。しかしそうした事実上の違いが、上下・優劣・支配関係を生じさせるべきではない、というのが現代社会の理念です。身分社会はもう終わったはずなのです。ですので、ランキングの上下を作ってしまう悪口は、人を傷つけなくても、悪意がなくても悪い、ということになるわけです

 

しかし、「劣位化+悪意」とか「劣位化+危害」とかのように、重なって成立しているような、とても悪い状態というのを考えることができるのではないだろうか。


ということで、堀田義太郎(2014a)「差別の規範理論――差別の悪の根拠に関する検討」を参照する*4と、差別を「害ベース説」と「尊重ベース説」に分けて、それぞれの立場の検討をしている。

 

害ベース説は「被差別者が被る害または不利益に着目する」ものであり、尊重ベース説は「行為者(差別者)の主観的な動機や意図、またはそれらの背後にある偏見などの信念」や「行為者の動機や意図や信念からも、害や不利益からも独立した『行為の意味』」に着目するものである。

特に、「行為の意味」は、「人は等しい道徳的価値をもつという原理を侵害する」ような「『貶価(demean)』を『表現』するような行為であるかどうか」が指標となるとされる*5


とすると、「害ベース説」は「危害説」に、「尊重ベース説」は「悪意説」+「劣位化説」に対応している。

で、堀田は別なところで、差別に対する暫定的な回答として、

多くの領域で不利益を被る集団に属しているという理由に基づく,不利益処遇または劣位化処遇

と書いている*6

 

3. 悪趣味なフィクションの悪さについて

上の2つの議論を足して味付けをしてみる。

 

1では「ジョークで笑うこと」を考察の対象としているが、これは別に「フィクションを楽しむこと」でも同じような議論が成り立ちそうである。「ジョークを面白がる」のような箇所を「フィクションを楽しむ」にパラフレーズしても、結構通用する。

悪趣味なフィクションを楽しむことは、嘲笑のような明確な侮辱ではないだろうが、偏見に対する肯定的な態度をとっても良いという暗黙のメッセージとなっているかもしれない。

 

しかし、「偏見に対する肯定的な態度をとっても良いという暗黙のメッセージ」は、必ずしも具体的な人格への明確な危害を与えるものではない。なので、スマッツ説のような「有害」をストレートに言い立てることはできない可能性がある*7


だとしても、そういうメッセージは悪いと言える根拠を2で見てきた。悪口の悪さを説明する3説の中で、劣位化説については成立する。というか、「偏見に対する肯定的な態度」が、かなり劣位化に近い。

したがって、悪趣味を楽しむことは、偏見に対して肯定的な態度をとってもよいという暗黙のメッセージにつながりやすく、現代社会にあるまじき劣位化を生じさせてしまうということになる。


次の問題は、劣位化は明確に語られるものではないということである。悪口の劣位化説の説明で和泉の挙げている例などに対しても、「なぜそれが対象者を劣位においていることになるのか分からない」と言われたらどうだろうか。「劣位化が成り立っているかどうかを明瞭に示す基準が存在しなければならない」と言われたらどうだろうか。

回答案として、大谷(2020)を参考としてみたい(例は変えてある)*8

おおまかには、

先生「A型の人には優、B型の人には良を付けます」
生徒「それは不平等だ」

という会話に対して、

先生「平等とは、機会の平等か、それとも結果の平等か。それが定まらないと君の抗議は意味をなさない」

と混ぜっ返すことは、馬鹿げているだろう。

・・・ということである。


つまり、日常的・典型的な観点から劣位化と認められるものであれば、それで根拠として十分だろうということになる*9。ただし、逆に「一理ある」と思われる問いかけに対しては、真摯に対応する必要があるだろう。

したがって、どの立場であっても、常識的な観点と他者に対する広範な知識が求められることになる。

(・・・いろいろ書いたが、以上の話については、結局のところあやふやなままなので、いつかもうちょっと考えてみたいと思います。)

 

で、その次の問題は、悪趣味なフィクションを楽しむことと偏見に対する肯定的な態度をとっても良いという暗黙のメッセージとのつながりはどのくらい強いものなのか、である。

悪趣味なフィクションは、あくまでフィクションなのであって、現実の偏見への態度を決定するものではないのではないだろうか。


三たび『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』から引いてくるが、朱喜哲は、

特定のモードで使う言葉を使い続けているうちに、どんどんそんな気になってくる、ということもあり得ます。それどころか、カタカナ混じりのビジネス用語を流暢に使いこなせるようになることと、ビジネスパーソンとして洗練されていく(あるいは染まっていく)こととは少なくとも外形的にはほとんど区別できない、とさえ言えるかもしれません

と書いている。*10

 

もちろんこのようなことは、実験的に確かめるべきものである。

ただ、語彙が染まっている状況というのは、意識されない態度にもバイアスが掛かっている可能性があるように思われる。悪趣味なフィクションに慣れ親しむということは、そこで描かれているバイアスが掛かった概念の関連付けにも染まっている(その関連付けが自然だと考える)可能性がそこそこあるということであり、その場合、それがふとした行動に現れるということもありそうな話に見える。

 

・・・ということは、上で述べたように実験的に検証されなければならない。ただ、ある概念の関連付けにどっぷりの状態から離れて実生活を行うことはなかなか難しいだろう。

 

明らかにあやふやで、追加の検討が必要な箇所もあるが、ある程度はこのような考え方でいいと思われる。
「あるフィクションが劣位化を含むかどうか」や「悪質なフィクションが現実への偏見を助長するか」という問題は、間違いなく論点であるし、今後も考えていきたい(感想)。

 

4. 帰結主義者から見た劣位化説

さて、ここまでの議論には、個人的な問題がある。

自分自身が功利主義寄りだということである。


功利主義者から劣位化を見ると、何が言えるだろうか。

功利主義的観点からすると、悪いことは危害を与えるから悪いのであって、他の考慮すべきと思われる要素も、危害に繋がるから悪いと言うことになるはずである。

しかし、2と3で危害説と劣位化説を区別しているように、劣位化説はぱっと見、功利主義と相性が悪いように思われる。

 

ということで、劣位化説を危害と関連させて論じることができないかどうかを検討してみる。

つまり、劣位化を「間接的な有害さ」として捉えてみようという試みである。


他者を貶価するということは、他者を個人として尊重しないということである。これは、功利主義的には功利計算上1個人としてカウントしないということを示唆する*11
そのため、他者の苦しみを不当に割り引いて勘定したり、もっと悪い場合には計算から除外したりしてしまう可能性がある・・・ということになってしまう。これは、前掲のMiczo(2021)において、Morreallの意見をまとめて、

Morreall contends that joke-tellers and audiences are unlikely to believe (much less endorse) the exaggerated characteristics in joking stereotypes; nevertheless, promulgating such images and ideas can make people indifferent to the truth behind the stereotypes and to the possibility of causing harm. Morreall collectively sums up these possibilities with the following principle: “Do not promote a lack of concern for something about which people should be concerned”

と書いているように、関心を持つべき事柄に対して鈍感になってしまうということである。*12


対象者の苦しみを勝手に割り引いていいという態度は、その割引が存在しなかった場合と比べて悪い結果をもたらす傾向があるだろう。

したがって、功利主義的には、劣位化をするということは、その分悪いということになる。

 

5. 悪趣味なフィクションを楽しむ自分を贖罪する

以上の議論を踏まえて、贖罪をしましょう。

3で確認したように、悪趣味なフィクションを楽しむことは、間接的に現実の態度として現れ得ることになります。そしてそのような態度は、対象となる人々の苦しみを過小評価することにつながるため、悪いということになるでしょう。

 

・・・だとしたら、「間接的に現実の態度として現れること」を強制的に阻止してしまえば良いのではないでしょうか。悪趣味なフィクションを楽しむことに含まれる暗黙のメッセージに対して、意識的にNOを突きつけてしまえば良いのではないでしょうか。

 

と考えると、私が取るべき行為は、悪趣味なフィクションに含まれる悪い要素に、真っ向から反対するような行動を現実で取る、ということになります。そうすれば、むしろ現実における反差別を推進するメッセージとしての効果もあるでしょう。

また、悪趣味なフィクションによってバイアスの掛かった概念の関連付けから離れた行動を無理やり行うことによって、意識的でないバイアスをキャンセルできる可能性もあります。

 

以上のことは、現在(インターネットなどで)実際に生じている状況とは、逆のムーブをしなければならないということです。

 

他にやるべきことを考えると、ありきたりのことですが、社会常識を身につける・現実の差別や偏見に対する知識を付け、共感できるようにする、のようなことが考えられます。現実の差別・偏見に抗し、バイアスの掛かった概念の関連付けからちょっとだけ離れる・・・ことを目標とするとよさそうです。

 

なので、「趣味の悪さと現実の高潔さを両立した変な人」が、ここで求められる人物像ということになります。もしかすると、「フィクションと現実を区別する」と胸を張って言えるためには、そのくらいのことが必要なのかもしれません。

 

6. まとめ

J.S.ミルは、『自由論』の中で

軽薄、強情、虚栄心をあらわにする人――節度のある生活ができない人――有害なことに溺れて自分が抑制できない人――人間的な知性や感性の喜びを犠牲にして動物的な快楽を追求する人――こういう人間は、ほかのひとびとから低く見られ、あまり好感をもってもらえないと覚悟しなければならない。しかも、そのことに文句をいう権利すらもっていない。ただし、社会的に非常にすぐれた仕事をしているおかげで、ひとびとに好かれ、個人的な欠点にもかかわらず、親切にしてもらえるようになっていれば、べつである。*13

と述べている。

 

この「ただし」以下(英語だと"unless"以下)の部分が、趣味の悪い私が目指さなければならないものと言えるだろう。

*1:原虎太郎(2022)「差別的な冗談を面白いと感じるのは悪いことなのか?」『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』総合法令出版

*2:

いつものとおり孫引き

参照元は、
Nathan Miczo (2021) "The ethics of news media reporting on coronavirus humor" Humor,  34(2) pp.305-327
で、その元(未読)は、
De Sousa, Ronald. (1987) "When is it wrong to laugh?" The philosophy of laughter and humor, pp.226-249

※言うまでもないが、差別的なジョークに怒ることはその差別を是認していることにはならない。

*3:和泉悠(2022)「悪口はどうして悪いのか?」『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』総合法令出版

*4:堀田義太郎(2014a)「差別の規範理論――差別の悪の根拠に関する検討」社会と倫理 29, pp.93-109

*5:前掲のMiczo(2021)でも、劣位化に関係する考察がいくつか紹介されている。

*6:堀田義太郎(2014b)「差別論のためのノート」大谷通高・村上慎司編『生存学研究センター報告 21 生存をめぐる規範――オルタナティブな秩序と関係性の生成に向けて』立命館大学生存学研究センター, pp.52-73

*7:前掲のMiczo(2021)によると、スマッツ説では差別的なユーモアは、対象者へ「心の傷」を与えるため悪いとされている

*8:大谷弘(2020)『ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学』青土社

ウィトゲンシュタインによる明確化の解説中の例で、「すべてを明確化する必要はあるのか」という疑問への回答である。

*9:

例えば、
Feyerabend, P (1994) "Potentially Every Culture Is All Cultures" Common Knowledge 3, pp.16-22
では、危害行為を、特定の枠組みによって解釈された危害行為ではなく、普通の危害行為として扱うよう提案している(p.22)。

本文中の平等の例のような、不必要に疑いを差し挟むことのナンセンスさついては、ウィトゲンシュタイン『確実性について』の§115や§498などでも取り上げられている。

*10:朱喜哲(2022)「『虐殺の文法』を解明する?」『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』総合法令出版

*11:動物とかAIとかを視野に入れて考えると「個人」じゃなくて、「個体」とか別な言い方をした方がいいのかもしれないが、今回の議題からは外れるのでスルーします。というか、英語だとどちらもindividualでいいのか・・・

*12:前掲のMiczo(2021)参照。

Morreallのオリジナルは、

Morreall, John. (2009) Comic relief: A comprehensive philosophy of humor, Chichester: Wiley-Blackwell.

*13:ミル『自由論』(斉藤悦則訳)光文社 (2012)のpp.189-90

wikisourse版は、

A person who shows rashness, obstinacy, self-conceit—who cannot live within moderate means—who cannot restrain himself from hurtful indulgences—who pursues animal pleasures at the expense of those of feeling and intellect—must expect to be lowered in the opinion of others, and to have a less share of their favourable sentiments; but of this he has no right to complain, unless he has merited their favour by special excellence in his social relations, and has thus established a title to their good offices, which is not affected by his demerits towards himself.