ファイヤアーベントをちょっとだけ読んだ話

ファイヤアーベントは、相対主義である。
正直プロタゴラス主義者と言ってもいいかもしれないくらいには相対主義者に見える。

ただし、本人的には、ある種の相対主義には反対であると主張している。

 

・・・という辺りを、後年の著作を眺めながら書いてみます。

ただし、Conquest of Abundance という本については、一部しか読んでいません。

 

1. 客観主義でも相対主義でもない相互理解のあり方

ファイヤアーベントは、相互の対話によって課題に対処していくということを重視しているようである。
例えば、Conquest of Abundance*1に収録されている晩年の論考 "Universal as Tyrants and Mediators"*2には、次のような一節がある。

In a dictatorship "what is shared" is imposed; it rules because its subjects are not allowed to act otherwise. "What is shared" rules also in a democracy but not because its citizens either cannot think and act in any other way or because they have been forbidden to think and act in any other way; "what is shared" rules because the citizens have decided to orient their public actions (not all their actions) temporarily (not forever) around a simple program (not around a "rational foundation" or a "humanitarian ideal" ―― though either can play a role in the choice of the program).(p.263 斜体は原著者)

ファイヤアーベントは、原則を強制的に押しつけることに否定的だった。それが物理法則だったりしても相変わらず否定的である。ルールを共有することが可能な場合というのは、市民が公共の行動を一時的に方向付けるときということになる。

 

・・・ということで、「ルールは公共の問題に対処するための暫定的な規則として用いよう」ということになる。
なんとなく、ロールズの重なり合うコンセンサスとか、ローティの公私の区別を思い出した(主観)。

 

文化の間の協働についても話は同様であり、文化の間で暫定的にルールを共有しましょうということになる。

ということで、

Between whom? Between the interacting parties. 

とか

According to what principles? According to the principles the parties either bring to or invent during the negotiations. 

とか

Should relations between humans not be guided by universal principles? Yes, if such principles happen to have universal appeal; no, if their actual power among the negotiating parties is limited. 

とかのような問いと答えが出てくる(同p.263)。したがって、普遍的原理がガイドとなるべきなのは、当事者の手によるものであって、交渉を制限するものではないとき、となる。で、交渉の結果採択された原理がたまたま普遍的だったという場合はOKという判定のようだ。

ファイヤアーベントが反対するのは、それらの原理を客観的真理とか絶対的な答えのように扱う場合である。「普遍的原理です。交渉の余地はありません」という態度がダメなのだと思う。それが特定の物理法則だったとしても、論理規則だったとしても、押しつけちゃダメ、というのが特徴的な部分である。

Conquest of Abundanceのp.34 脚注にある、

Authentic murder, torture, and suppression become ordinary murder, torture, and suppression, and should be treated as such

という文章(斜体は原著者)は、これもその方向で捉えてみるといいんじゃないだろうか。つまり、社会問題を、絶対的な回答・客観的真理としての苦しみとして考えるのではなく、交渉の結果出てくる通常の苦しみとして考えるようにしようという意味で捉えたいような気がしている。

 

で、じゃあどのような介入が可能か考えてみる。

和訳も出ている、『知についての三つの対話』を参照してみる*3

モーリーン でも、こんな風に考えるべきだとすれば、どうやって他人を説得できるの。何故他人を説得したいと考えるの。

ジャック 僕は、プロタゴラスが修辞家と医師を比較した話を持ち出したときに、この問題に一つの解答を与えていると思う。もっとも、ここでの医師というのは、医薬として錠剤などを与える医師じゃなくて、言葉で癒やそうとする医師のことだけどね。哲学者が、どうも誤っているから直してやりたいと思われる他人を見つけたとする。哲学者はその人物に近づいて、彼に話しかける。この仕事がうまくいけば、哲学者のやった議論は医薬と同じ働きをしたことになり、その誤っていると思われた人物の考え方や態度を変えることができるはずです。(「第一の対話」p.74)

 

これについては、Conquest of Abundanceのp.34 脚注(斜体は原著者)の、

Drastic interventions are not excluded but should be made only after an extended contact, not just with a few "leaders," but with the populations directly involved. Having discarded objectivity and cultural separation and having emphasized intercultural processes, those who perceive medical, nutritional, environmental problems or problems of human or, more specifically, female rights have to start such processes on the spot and with due attention to the opinions of the locals.

という記述も同じような方面で捉えるとよいのだと思う。

しかし、上に書いたように、普遍的原理であることを理由とした介入は望ましいものではない。ファイヤアーベントにとっては、ここでの介入は普遍的原理であることを前提としたものではなく、結果としてたまたまというものになる。

 

さらに、概念枠相対主義のように、それぞれの原理を絶対視して、対話による解決は望めないという見解も採らない。例えば、"Intellectuals and the Facts of Life"のという論考*4の末尾で、

Understanding cannot exist without contact. Contact changes the parties concerned. Those who are unwilling to change ("scholars" will hardly drop "the descriptive and theoretical discourse of Western Social Science"), and who, in addition, are afraid of changing others ("protect non-Western cultures," etc.), will therefore find themselves in an artificial world that is perfectly described by the "philosophical principles of incommensurability and indeterminacy of translation."(p.268)

と述べている。理解に至る過程においては、当事者の両方が変化するというのがファイヤアーベントの主張である。で、それを避けようとすると客観主義や概念枠相対主義に陥ると考えているようである。

 

・・・ということで、変化することを前提とした相互の交渉によって課題に対処するという姿が見える。文化と文化の間は、決して殻の中に閉じこもった状態ではなく、変化による相互理解に至ることができる。

ファイヤアーベントが拒否しているような概念枠相対主義を前提とすると、他者理解も成立しなくなってしまう(のだそうだ)。しかし、現実はそうなってはいない(はず)だし、道義的に見て望ましくもない。

したがって、そういうお堅い相対主義は、事実に対する主張だとしても、倫理に関する主張だとしても妥当ではないということになる。「東洋人の気持ちは東洋人にしか分からない」というようなタイプの公正さを目指すのは良くないという指摘(同p.267-8)はもっともであるように思われる(でないと、相互理解が成立しなくなってしまうので)。*5


(変化もあるし、私たちは新しいことを学ぶこともできるという見解については、『知についての三つの対話』「第三の対話」p.299-300にも記載がある)

 

2. 変化の可能性

次は、そのような変化があり得るのかについて見てみる。変化を可能にするための要素をいくつか挙げてみたい。

 

2-1. 曖昧さ

一つ目の要素は、曖昧さである。

例えば、「すべてのカラスは黒い」というちょくちょく見かける命題を考えてみる。
この命題の真理条件は明確だろうか。
この命題について、全く考えてもいなかったことは無いだろうか。

ジャック (...) 例えば、「すべてのカラスは黒い」。これをどうやって反証する?
ドナルド 白いカラスを見つける。
ジャック 僕は白いカラスを夢に見る。
ドナルド そうじゃない、ほんとの白いカラス
ジャック じゃ、白ペンキでカラスを塗ってしまう。
ドナルド 塗ったカラスなんかじゃないにきまってるじゃないか。(「第一の対話」p.69-70)

夢で見たカラスや白く塗ったカラスが反証例にならないことは、当然だろう。が、そのようなことは事前に念頭にあっただろうか。

ジャックはさらにこう言う。

ジャック (...) カラスの例では、「白い」という「言葉」で正確に記述されているカラスが、いるか、いないか、だけでは、不十分なのです。どういう白さを望んでいるか、が問題なのです。そしてことはそう簡単ではない(例えば、何らかの病気である群れのカラスたちが、羽毛の色を失ってしまったとすると、こうした事例をどう扱ったらよいか)のです。(「第一の対話」p.70)

仮に、白いカラス状の鳥がいたとして、それは本当にカラス科に分類されるだろうか。カラス上科を巻き込んだ再編成を行って「すべてのカラスは黒い」の方を維持する可能性はないだろうか。・・・等々、これらのことについて、予めどういう処理をするか思いついていただろうか。

ということで、「すべてのカラスは黒い」くらいの命題には、予め想定していない事象が存在し、それに対してどういう対応を取るのがよいのかについて決まっていないということもあり得る。その意味で、この命題は曖昧だと言えるだろう。

 

例えば、ニュートンの時代に、縦質量と横質量のようなことが念頭にあっただろうかとか、EPRみたいな状況を想定していただろうかとか考えると、科学でも出現することがありうると考えることもできそうである。*6

 

このような曖昧だった部分に気付くということや、それによって新しいことを色々と決め直さないといけない(場合によってはその主張を諦めないといけない)ということは、変化をもたらすということになるだろう。

 

2-2. 関係による解釈

二つ目の要素は、関係による解釈である。
"Art as Product of Nature as a Work of Art" *7 では、ファイヤアーベントの特殊な存在論が記述されている。正直、社会構築主義と言ってしまってもおかしくなさそうな見解である。

上でも触れている、"Intellectuals and the Facts of Life"*8のほうで要約されているので、横着してそちらから引用してみると、

Our surroundings, the entire physical universe included (...), are not simply given. They respond to our actions and ideas. Theories and principles must therefore be used with care. (p.268)

というような主張をしているようだ。

『知についての三つの対話』でもそれっぽい記述があり、

チャールズ (...)世界が、あるいはもっと一般的な術語を使えば、存在が、君の振舞い方に応じて変わり、あるいは伝統全体の振舞い方に応じて変わる、と考えてみたらどうでしょう、異なった接近の仕方には異なって反応し、普遍的な物質や普遍的な法則と関係するようなものが考えられないとしてみるんです。さらに、存在が、二つ以上の接近の仕方に対して同じように肯定的に反応し、生命を永らえさせ、真ならしめるように反応するとしてみましょう。そうすると、われわえに言えることはたかだかこういうことになる。科学的に接近すれば、存在は、閉じた世界、永遠で無限な宇宙、ビッグ・バン、星雲の大きな壁、などなどといったことを次々にわれわれに教えてくれるし、小さい方では、不変なパルメニデス的な粒子から始まって、デモクリトス的な原子、そして現在のクォークに至るものを教えてくれる。一方、霊的に接近すれば、存在は、神を与えてくれる、それも神の概念だけではなく、生きて目に見える神を、その行為を細かにフォローできるまで、はっきりと、われわれに与えてくれる、そして、生はこうしたすべての状況の下で、営まれるものなんです。(「第一の対話」p.92-93 太字原著者)

とか

チャールズ (...)人間は、あるいは文化のある特定の安定した側面はものごとの尺度であるが、それは存在がそれらの側面を尺度として許容する限りにおいてである。さらに、存在は、個人にも文化にも一定量の独立を許容する、それは、ここでの限られた意味での尺度を成立させるのに必要なものである。一人の個人が、人跡未踏の道を歩み始め、それが存在の「こころの琴線」に触れ、その結果全く新しい世界が拓けていくということも有り得る。(「第一の対話」p.96 太字原著者)

と言っている。


・・・ということで、存在するものは、私たちのアプローチと存在側のリアクションの関係があって初めて見えてくるようなもの、ということが主張されていると言えるだろう。したがって、半分くらいは社会構築主義っぽい反面、存在側のリアクションが必須であるため、随意という訳にもいかない。接近の仕方によっては無視されることも考えられる。(「第一の対話」p.95)


なお悪いことに、独立した存在者間に関係が取り結ばれるという想定もしておらず、関係があって初めて存在者が現れると考えているフシがある。

例えば、存在の関係説への理由のひとつに、量子力学の存在を挙げていたりする。

Finally, there is the quantum theory. It is one of the best-confirmed theories we possess and it implies, in a widely accepted interpretation, that properties once regarded as objective depend on the way in which the world is being approached. ("Art as Product of Nature as a Work of Art"p.240)

文脈依存性が理由に挙がっているため、測定する前の位置とか運動量のような独立した性質を考えにくい。それと類比的に、関係が取り結ばれる前の客観的な対象というものを考えても上手くいかない・・・と考えているっぽい。

『知についての三つの対話』「第三の対話」では、

B (...) ある人物の「客観的」な笑顔なんてことについて、僕らは語ることができないんだ。人間関係は笑顔や仕草や感じなんかで成り立っているんだから、「客観的」な友人関係なんてものは、本来的に「大きい」などという概念があり得ないのと同じく、不可能なのさ。ある物が大きいとか小さいとかいうことは、他の物との比較で初めて成り立つのであって、ものあそれ自体で大きい、とは言えないだろう、それと同じで、笑顔は、ある観測者にとって何らかの笑顔ではあっても、笑顔それ自体なんてものは有り得ないんだ。(「第三の対話」p.257 太字原著者)

のように、量子力学っぽい書き方をしながら、客観性に対して否定的な見解が表明されている。*9

EPR相関みたいな状況で私が粒子の位置を測定したとき、「なぜ運動量ではなく、位置を測定したのか」と聞かれたら、「なんとなく」のような、おおむね主観ワードで答えるしかないだろう。しかし、だからといって位置の測定値が全部私の主観からできているかというとそういう訳でもないし、そもそも主観的だと感じる人の方が少ないように思われる。ファイヤアーベントにおける社会構築主義っぽい側面も、実はそのくらいのものなのかもしれない。


・・・という、関係による解釈を採用すると、変化について説明しやすくなる。

スカイツリーは、東京タワーと比較すると「高い」が、富士山と比較すると「低い」というように、スカイツリーに手を加えなくても記述を変化させることができる。
また、私から見た誰かの笑顔が、手を触れることなく、周囲や自分の状況次第で嘲笑に変わったりもする。

『テアイテトス』における説明によれば、プロタゴラス説と変化の間には関連があるとされる。特に、152dあたりからの、プロタゴラスが弟子に語ったとされる「秘密の教説」は、関係による解釈と変化を結びつけるような議論をしている(とプラトンは考えていたっぽい?)。

 

3. 経験を超えた範囲について

そもそも存在とかそういうものを考えずに、純粋に経験・実証に依るべきではないかという反論もあり得る。これについてファイヤアーベントは否定的である。

例えば、上の「すべてのカラスは黒い」の例で出てきた、

ドナルド そうじゃない、ほんとの白いカラス。(「第一の対話」p.69)

というコメントで示唆されているように、検証や反証の前に前提とされている事柄が存在していると考えているっぽい。実際のところ、そうでなければ、反証事例として機能しうるべき白いカラスとそうでない白いカラスを区別することができないはず。*10

 

というように、ファイヤアーベントは、何らかの世界観のようなもの(これを形而上学とか姿勢とか色々呼んでいる*11)が存在していると想定している。

実際のところ、まだ上手くいっていない理論を試してみようと思うことはあるだろうが、「何らかの点で上手くいく見込みがありそうだ」と考えるから試してみるのであって、一切どうしようもないようなものを試すということにはならないはずである。その場合、経験や実証ではない何らかの魅力に惹かれたということになるが、それも一種の形而上学と考えられるだろう。

アーサー (...) 形而上学というのはこう定義してよいと思います。つまり、観察を基盤としない領域であって、観察が教えてくれると思われることとは別個にものごとを吟味する知的活動である、というものです。一言で言えば、よき科学は、それを進めていくためには形而上学的議論を必要とするのです。(「第一の対話」p.19)

相異なる形而上学の間の違いというのも、これまでと同じように対話が可能である(「第三の対話」p.273とかp.304-5とか)し、変化しうるものと考えられる。関係についての話で出てきたような、周囲の環境や他の形而上学との関係の中で初めて見えてくるようなものと捉えることができるだろう。

 

ファイヤアーベントは、客観的対象のようなものを考えず、印象のリストとして捉えることを推奨していたように見える(「第一の対話」p.77-79や「第三の対話」p.257)ため、形而上学や世界観と言われるようなものの役割のひとつとして、印象のリストのまとめ方の傾向付けるというのがあるかもしれない。*12

 

4. まとめ

基本は、対話により変化するような相対主義路線のイメージ。

存在に対しても、こちらのアプローチに対するリアクションという対話っぽい捉え方をしている。

 

なので、すごくプロタゴラスっぽい。

*1:Feyerabend, Paul (1999), Conquest of Abundance: A Tale of Abstractness Versus the Richness of Being. Chicago: The University of Chicago Press

注釈の無い引用はこの本から採っています。

*2:Conquest of Abundance p.252-264 に再録されているものを参照しています

*3:P. K. ファイヤアーベント (和訳2007年)『知についての三つの対話』ちくま学芸文庫村上陽一郎 訳)

この本は、授業における数人の話し合いという文脈である「第一の対話」と、合理主義者っぽいAとファイヤアーベントっぽいBの対話である「第二の対話」「第三の対話」からできているので、引用する際には、「第一の対話」とか「第三の対話」とか書くことにする。

*4:Conquest of Abundance p.265-268 に再録されているものを参照しています

*5:(本文では公正さと書いたが、現在この手の「公正さ」を主張しがちなのって、左派というより・・・と思ったりもする)

*6:モノによっては、「気付かなかったことがおかしかった」という意見もあるかもしれない。しかし、それは事後的な再構成による視点であることが影響している可能性がある。例えば、ファン・フラーセンによるConquest of Abundanceの書評に出てくるワインバーグのコメントを参照

*7:Conquest of Abundanceのp.223-241に再録されているもの

*8:Conquest of Abundanceのp.265-268に再録されているもの

*9:ただし、正当化の根拠を量子力学に完全に依存させた議論しかしていないかというとそうでもなく、「第一の対話」p.61では、『テアイテトス』におけるプロタゴラス説を参照しながら関係説を提示している(当然の話だが、プロタゴラス説は量子力学の誕生よりもはるか昔に主張されている)。引用箇所にも"Finally"とあるように、量子力学(の特定の解釈)は、いくつかある理由のひとつであって、関係説を採るべき異なる理由も存在している。したがって、量子力学が使用できないところに量子力学的なアナロジーを誤適用しているという批判は(たぶん)成立しない・・・と思う。
それでも、独立した存在vs相互作用の中の存在という構図が、古くから繰り返されているということは指摘できて、物理学におけるバージョンがアインシュタインvsボーアだと捉えることができる・・・のだと思う。

*10:Conquest of Abundance p.76では、ガリレイの彗星に対する態度を挙げている

*11:物語という言い方も出てくるが、これも一部含まれる・・・と思う(「第三の対話」p.270)

*12:ただ、これを書いた後で思ったのだが、経験主義を貫徹するならば印象のリストとして考えるのがよいし、そうでないならば何らかの意味での形而上学が必要になるよね・・・くらいの意味かも?