二枚舌の功罪

論述において二枚舌を用いることは、そりゃ当然ダメだと思う。
しかし、以下のように二枚舌が上手く機能し(てしまっ)たような事例も考えられる。

 

・・・という例外的な話題。

 

 

1. 微分をする

 f(x)=x^2

とする。これを微分してみる。

 f(x+\mathit{\Delta} x) - f(x) = (x+\mathit{\Delta} x)^2 - x^2
                = x^2 + 2 x \mathit{\Delta} x + \mathit{\Delta} x^2 - x^2
                = 2 x \mathit{\Delta} x + \mathit{\Delta} x^2

これを \mathit{\Delta} xで割る。割り算なので、 \mathit{\Delta} x \neq 0 である。

 \dfrac{f(x+\mathit{\Delta} x) - f(x)}{\mathit{\Delta} x} = 2 x + \mathit{\Delta} x

さて、微分とは、間隔 \mathit{\Delta} xを0にする操作を行うものだった。

したがって、 \mathit{\Delta} x=0を代入すると、

 f'(x) = 2x

となる。

 

2. バークリの批判

バークリは、"The Analyst; or a Discourse addressed to an Infidel Mathematician"という著書の中で、微分法を批判している。*1

en.wikipedia.org

 

Wikisourceだと、

en.wikisource.org

 

例えば、15節では

I admit that Signs may be made to denote either any thing or nothing: And consequently that in the original Notation x + o, o might have signified either an Increment or nothing. But then which of these soever you make it signify, you must argue consistently with such its Signification, and not proceed upon a double Meaning: Which to do were a manifest Sophism.

と言っている。(※oは増分を表す。つまり \mathit{\Delta}x のこと)

バークリは、上記の微分法が、はじめ \mathit{\Delta} x≠0という「何らかの増分」を表していたにもかかわらず、議論の途中で \mathit{\Delta} x=0という「無」へと態度(仮定)を変えていることを批判している。

 

3. ε-δ論法

ということを書くと、「いや、微分は厳密には次のようなε-δ論法で定義されている。バークリの批判は微分に対する誤った理解に基づくものだ」という反論がなされるだろう。

ε-δ論法を用いて、 f(x)=x^2微分すると、 f'(x)=2x となるという関係は、次のようになる。

 

導関数 f'(x)は、

 f'(x)= \displaystyle \lim_{{\mathit{\Delta} x \to 0}} \frac{f(x+\Delta x) - f(x)}{\mathit{\Delta} x}

で表すことができる。一旦、

 g(x, \mathit{\Delta}x) = \dfrac{f(x+\Delta x) - f(x)}{\mathit{\Delta} x}

とする。


ここで、

 \forall \varepsilon \gt 0に対して、 \exists \delta \gt 0 が存在し、 \forall \mathit{\Delta} x について、
 (☆) 0 \lt |\mathit{\Delta} x - 0| \lt \delta \to |g(x, \mathit{\Delta} x) - 2x| \lt \varepsilon

となればよい。

 

 \mathit{\Delta} x \neq 0としてよいので、

 g(x, \mathit{\Delta} x) = 2x + \mathit{\Delta} x

である。なので、

 |g(x, \mathit{\Delta} x)-2x|=|\mathit{\Delta} x|

となる。

 

したがって、どのような \varepsilon が選ばれたとしても、 \delta

 \delta \lt \varepsilon

を満たすように取ってくるという戦術(例えば \delta = \frac{1}{2} \varepsilonとか)を採れば、(☆)を常に満たすことができる。

よって、 f'(x)=2xである。

 

ここでは、 \mathit{\Delta} x=0 という関係式は出てこない。

したがって、バークリの批判は成立しない。

 

・・・という感じである。*2

 

4. 時系列を見てみる

以上の話には、少しだけ問題があるように思われる。

 

時系列を整理してみると、
・バークリの著書は、1734年
・コーシーの"Cours d'analyse"は、1821年
ワイエルシュトラスによる厳密化は、1861年*3
ニュートンライプニッツ微分積分学に関する業績が、17世紀後半くらい)

 

となっているので、バークリの批判からε-δ論法までは、結構長い期間が空いていることが分かる。ニュートンライプニッツの頃から問題が内在していたと考えるならば、さらにもう少し期間が延びる。

 

したがって、少なくとも1734年から1821年までの間は二枚舌戦略が用いられていたことになる。

しかし、バークリの批判に対して、「確かにそうだ。じゃあ微分積分学を研究するのをやめよう」とみんなが思ってしまった場合は、後の発展も、何ならε-δ論法さえも生まれなかったことになってしまう。

 

という訳で、二枚舌戦略を用いて、バークリの批判をスルーするという作戦は、結果的には有効だったと言わざるを得ないだろう。*4

現在では精密・厳密に仕上げられている微分積分学も、100年近くこのような時代があった。
・・・ということは、100年くらいは不整合性に目をつぶって、将来、問題が解消されることに期待するというのもあり得る態度なのかもしれない。*5

5. まとめ

ファイヤアーベントの『知についての三つの対話』に出てくる話に、

死にかけた婦人が眼の前にいるとする。彼女の幸せと言えば息子のことだけ。痛みは激しい。もう死が近いことを感づいている。彼女は訊く、「アーサーはどうしているの」。そのアーサーは監獄にいる。彼女にそのことを伝えるべきだろうか、そうして、絶望のうちにこの世を去らせるべきだろうか。それとも、「アーサーは元気でいるよ、大丈夫さ」と言ってやるべきだろうか。

というものがある。*6

このような「やさしいウソ」も二枚舌の一種だろう。この手のやさしいウソが問題を巻き起こすことも無くはないが、倫理的に見たときに絶対あり得ないとまでは言えないだろう。

 

微積分学に発展の猶予を与えたと言う点や、「やさしいウソ」の事例のように、二枚舌が役に立つ場面は一応あり得る。

だったら二枚舌は良いのかと言われると、例を挙げるまでもなく、多くのシチュエーションにおいて悪いことである。

 

じゃあ、何を言いたいのかというと、特に何もない。

 

*1:これを調べたきっかけはファイヤアーベントだったが、何を見て調べる気になったのかを忘れてしまった。

*2:たぶん

*3:Limit of a function - Wikipedia

*4:別にスルーしていた訳ではない。

例えばマクローリンはバークリに対して反論をしている。
(髙橋秀裕(2011)「ニュートン以後の微分積分学の発展と基礎づけに関する思想史的研究」大正大學研究紀要、Vol.96, pp.213-217)

が、曖昧な無限小概念をε-δ論法に置き換えるという最終的な解決が果たされたのがコーシーやワイエルシュトラスの時代になったというのも正しいと思われる。なので、反論はあったが、決定打にまでは至らないまま100年近く経過した・・・みたいな言い方のほうがいいのかもしれない。

*5:そんな気の長い人間なんて(自分も含めて)そんないないだろうけど

*6:ファイヤアーベント, P (原著1991)「第二の対話(1976年)―科学とは何か」『知についての三つの対話』ちくま学芸文庫, 村上陽一郎訳(2007)のp.108より