難癖について考える

難癖とかシーライオニングについて考えてみます。

(別にネットに限った話ではないが)ネットでよく見るので。

 

 

1. 難癖かそうじゃないか

まず、面倒そうな論点として、難癖かそうじゃないかの線引きについて考えてみる。人によっては明確だと言う人もいそうだし、曖昧だという人もいるだろう。

 

私は曖昧だと思っている。

例えば、ソクラテスは難癖を付けていたという印象はあるだろうか。
ソクラテス式問答法は、真理に至るための有力な手段であって、決して難癖とかシーライオニングとかではないとされる。

 

しかし、例えば、『プロタゴラス』では、ソクラテス
「私は物覚えが悪いので、長い話は覚えていられない。短く答えてください」
とか
「頭の良いヤツは長くも短くも話せるはずだ」
とか言っている。*1

答え方すら指定しているし、別に短ければ答えるのが楽という訳でもないことを考えると、結構クソである。*2
というか、物覚えが悪いもウソだと思う。*3

こんなことをやって相手を問い詰めることは、普通難癖と言わないだろうか。*4

・・・ということで、難癖かどうか判断が分かれるシーンが存在するという点で、曖昧さが存在すると思っている。


しかし、だからと言って、難癖やシーライオニングが存在しなくなる訳ではない。

ソリテスパラドックスだって、「砂山である」という概念が曖昧だからといって、砂山が存在しないということにはならない。

一方の端に無害な問答があり、逆側の端に悪質な難癖があるという状態なんだと思われる。境界が不明瞭なことは、両端が存在しないことを意味しない。
むしろ境界が不明瞭なために、自分が難癖の側に落ちてしまわないように、自己コントロールをしていくことが求められると思う。

 

2. 質問することの悪い点

ネット上では難癖を付けに行く場合、中立っぽく質問をするという方法が見られる。もちろん、「質問することは価値中立的なことじゃないか。どこが悪いんだ」という意見もあるだろう。

これについては、例えば以下の2点のような問題が考えられる。

 

(1) 多重質問の誤謬

ja.wikipedia.org

 

wikipediaの記事にあるように、イエスノーを問う質問にも関わらず、肯定も否定も相手への不利益となってしまうような質問が存在する。

 

wikipediaを見れば済むが)ひと通り書いておくと、「あなたは現在も××を行っているか?」という質問は、

・「はい」と答える:あなたは現在も××を行っている
・「いいえ」と答える:あなたは現在は××を行っていない(=過去に××を行っていたがやめた)

ということで、相手が××をやっていたと印象づけることができる。

 

古典論理でこの質問を書いてみると、

[現在××をしている] & [過去に××をしていた]

だと解釈できそうなので、たぶん「いいえ」と答えるのが正しいんだろうなと思う。

が、自然言語の議論に対する古典論理は当てにならないことがある*5ので、現実的には「はい」とも「いいえ」とも答えられない。


(2) 話題の蒸し返し

『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』の「質問をしただけなのに怒られるのはなぜか?」*6では、
主張を「会話の参加者で共有している情報を更新する提案」、質問を「情報ではなく『話題』の提案をしているのだ」と捉えている。ここから、「質問には選択肢を復活させる効果がある」という議論をしている。

質問を受け入れるということは、選択肢がまだ検討に値し残しておくものだということを受け入れることに等しい。すでに一度ついえたはずの可能性をふたたび俎上に上げようということにほかなりません。
(...)努力と犠牲を長い間積み重ねてきてようやく獲得した合意形成をもう一度繰り返させる試みには拒絶する十分な理由があるでしょう。

 

ということで、質問をすることは決して価値中立的な行為ではなく、議論を特定の方向に誘導することが可能だと言える。そして、これはやっている本人が気付いていないということもあり得るし、意図して行ったうえでとぼけているということもあり得る。

 

また、難癖でよくあるような、適当な決めつけについても、話題や情報更新の提案を含むものであり、「ただの推測で他意は無い」という言い訳が通用する訳ではない。

 

3. ブランドリーニの法則

適当な憶測を流すことの弊害として、ウィキペディアにはブランドリーニの法則(Brandolini's law)という記事がある。

ja.wikipedia.org

 

これは、

the amount of energy needed to refute bullshit is an order of magnitude bigger than to produce it.

というもの。*7

 

適当に吐かれたデタラメに対して、それを否定するという作業はとても大変という経験則を指す。これは、例えば「言いっ放しの相手に対して、調査・検証を行って訂正するという作業が必要になるので、一方的に労力が掛かる」とか「訂正された情報を周知するということが大変」と言った理由が考えられる。

 

したがって、適当なことを投げかける側は必要なエネルギーも時間も少なく済むのに対して、それを受ける側は多くのエネルギーと時間を要する傾向にあるということである。

 

4. 信じたいことについてのバイアス

『社会はなぜ左と右にわかれるのか』という本で紹介されていたという話*8だが、人間は

・信じたい事柄は、信じることが可能であれば信じる
・信じたくない事柄は、信じなければならないという状況にならないと信じない

とされるらしい。

 

可能世界チックな考え方をベースにすると、あらゆる可能世界についてその考えが成立しないことを示さない限り、信念は変わらないということになる。

例えば、可能世界が10個ある場合、

・それが信じたい事柄であれば、1個でも成立していれば信じる
・それが信じたくない事柄であれば、10個すべてで成立していないと信じない

ということになる。*9

 

普通、考えられる可能性なんてすごい数あるはずなので、態度を変えるというのはすごく大変ということになる。

ここから、難癖を付けた側が、相手の返答に満足することが滅多に無いということが導かれる。


また、なお悪いことに、人間は自分のことを優秀だと思い込む習性があるらしい(優越の錯覚)。この場合、上のような非対称なバイアスに陥っているにも関わらず、公平な視点に立って冷静に議論をしていると勘違いしてしまうという可能性すらある。

 

5. シーライオニング

ja.wikipedia.org

以上の点をベースにして、論敵のあら探しをして、ひたすら質問を投げ続けるという手法が存在する。

 

とにかく何でもいいから「あら」(または「あら」っぽいもの)を探して投げ続けると、相手は回答するために一方的にエネルギーを費やす

という状況が出来上がってしまう。そのため、傍目からは無理筋であっても、体力差によって勝ったように見せかけることが可能となってしまう。

 

また、適当に憶測を連発するという方法によっても、相手がそれを否定するためのエネルギーを使わせることができるため、この作戦は別に質問に限った話という訳でもない。インターネットでオープンにしたくないようなプライバシーについて決めつけを行えば、相手はそれを否定するのに苦慮するだろう。*10

体力差とか余暇時間の差によって議論の趨勢が決まってしまうのは、正直言論とは言いがたい。
・・・というか、ミル『自由論』で擁護されていたような言論の自由って、お互いに真理を目指すために切磋琢磨して意見を交わすというイメージのものであり、だからこそ自由は幸福を促進させる効果があると言えるのだと思われる。*11

 

中身と関係ないところで趨勢が決まってしまうと、自由の良さが生きてこないため、このタイプの議論もどきは、功利主義的に望ましいとは言えないように思われる。

 

6. 数の問題

さらに悪いことに、情報のやり取りが多くなった現在の社会(特にインターネット)では、論争相手がものすごい数になることがあり得る。*12

例えば、自分1人に対して、10人ほどの論争相手が一斉に現れたとしよう。
自分の側が使えるエネルギーは1人分、使える時間は1日最大24時間である。*13

一方相手側は、10人分のエネルギーと1日あたり最大240時間が与えられる。*14

 

その状態で10人側が上で見てきたのような難癖を付けてきたとすると、議論の内容に関係なく、どう見ても1人側が太刀打ちできる訳がない。

 

加えて、「赤信号みんなで渡れば怖くない」式に、みんなやっているからという理由で軽はずみな(無責任な)参加へのハードルが下がりやすいという面もある。「質問は価値中立だ」という考えと合わさると、(自分は公平な立場から発言しているという印象を持つため)もっとハードルが下がる。

 

そして、10人の側は体力差によって相手を押しつぶした上で、あたかも議論で勝ったかのように振る舞うことがある。

内容を検証したならば全然そんなことはないかもしれないが、議論の全体像を追いかけている人でなければ、それに気付かないかもしれない。

 

ということで、もっと自由の良さが生きてこないようなシチュエーションが実現してしまうことになる。

 

7. まとめ

ミルの『自由論』では、ソクラテスの手法を

たしかに、否定だけの批判は、それが最終結論であるならば貧弱そのものである。しかし、論駁法という名にふさわしく、積極的な知識や確信に到達するための手段としてならば、それはいまでもきわめて高く評価されるべきものである。

としている。*15

難癖やシーライオニングは、「積極的な知識や確信に到達するための手段」として、議論を用いるものではない。
(本人は真っ当な方法と思っているかもしれないが、時間・エネルギーの問題や数の問題を考慮しない時点で適正な手段にはならない)

 

正直、言論とか議論とかの間に生まれたバグにしか見えない。
そして、曖昧性の問題によって、取り除くのが難しいバグである。

 

バイアスの問題などは、誰でも陥る問題である。*16

なので、ネットにおいてまず考えなければならないことは、「立ち止まること」だと思う。難癖を付ける前に立ち止まれば、そもそも問題が発生しない。自分が参加しなければ、数の問題が軽減される。自分が偏見を持っているのではないかと疑う猶予が得られる。

ちょっとした堪えが、不幸を減らす効果を持つかもしれない。

*1:プロタゴラス』334cから335bあたり

*2:微妙な問題や難しい問題ほど、単純なイエスノーで回答しづらいものになるが、それを切り詰めるのは困難(というか無理)だろう

*3:「お前の話は長い」という皮肉として読むべき?

*4:元ネタはファイヤアーベント (原著1991)「第一の対話(1990年)―知とは何か」『知についての三つの対話』ちくま学芸文庫, 村上陽一郎訳(2007)における『テアイテトス』読解。かなりソクラテスに対して厳しめに議論をしている。

*5:実際、「いいえ」と回答すると、上のように「過去に××を行っていた」と解釈されるだろう

*6:遠藤進平(2022)「質問をしただけなのに怒られるのはなぜか?」『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』総合法令出版

*7:元ネタは(旧)ツイッター上の発言だが、なんかNatureの記事でもBrandolini's lawで使われているので、そのまま使用します。

*8:ジョナサン・ハイト(和訳2014)『社会はなぜ左と右にわかれるのか : 対立を超えるための道徳心理学』(高橋 洋 訳、紀伊國屋書店)のpp.146-160あたり

*9:実際はそこまで極端ではないだろうが、「1個」とか「すべて」とかを「少数」「多数」とかに変えれば大体成立していると思う

*10:プライバシーを維持しつつ相手の決めつけを否定するという、ただただ面倒くさい綱渡りを迫られる

*11:

どういう意見の持ち主であれ、反対意見やその持ち主について冷静に観察し、誠実に説明し、相手の不利な部分をけっして誇張せず、相手の有利な部分、あるいは有利と思われる部分をけっして隠さない人には、当然の賞賛を与える。
 これこそが、公の場での議論における真の道徳である。

ミル『自由論』(斉藤悦則訳)光文社 (2012)のpp133-134

*12:Q. ネット以前にもあったのでは?
A. あった。例えば、ファイヤアーベント『哲学、女、唄、そして・・・』(村上陽一郎訳、産業図書、1997)のpp.206-211あたりなどが実例
ただ、ネットによってやり取りをできる人の数は増えていると思う。移動しなくて良いし、郵便出さなくて良いし。

*13:実際は当然24時間を投入できる訳がないし、当然自分の生活もある。(というか、自分の生活の方が大事だと思う)

*14:こちらも同じだが、参加者が多ければ多いほど一人あたりでは楽になる。

*15:p.110

*16:例えばこの記事にはどのくらいのバイアスが含まれているだろうか。
反論の検討が少ないことが目に付く。曖昧さを恣意的に用いているように見える。ほかにもまだ自分で気付いていないことも多いだろう。

しかし、バイアスから自由になれないから無視するのではなく、バイアスと上手く向き合っていくことが重要なんだと思います。