ヘアの普遍化可能性指令から、選好功利主義を導くヤツを考えてみます。
(原書を読んでいません!)
大筋では、
伊勢田哲治(2012)『倫理学的に考える―倫理学の可能性を探る十の論考』勁草書房の
「第3章 メタ倫理学から功利主義は導けるか―ヘアによる選好功利主義導出の試みの検討」(pp.57-87)
の導出を参考にしています。
が、伊勢田さんのまとめ方から逸れたことをやっているので、信用度は低いと思います。
1. 状況設定
ここでは、aとbの2人のみの状況を考えます。
で、aさんがという行動をとるのがよいのか、という行動をとるのがよいのか
・・・という状況について検討することにします。
という行動が発生したときに、aには、bにはという体験が生じ、
という行動が発生したときに、aには、bにはという体験が生じるものとします。
また、とととの4つの体験の間の選好において、それを最大に充足するように行動しようとすると、が選ばれることにします。
2. 導出の前提
2-1. 普遍化可能性と指令性
今回はシンプルに、
(1)
「『もし自分がaであり、自分が道徳的で合理的であるならば、〇〇を指令される』
&
『もし自分がbであり、自分が道徳的で合理的であるならば、〇〇を指令される』」「『〇〇を指令される』は道徳的な主張である」
とします*1。
ベースは、以下の記事です。
・・・はい。普遍化可能性ではなく、反転可能性テストです。
(この段階で元ネタから逸れたことをやっていることが分かりますね)
2-2. 指令性と選好と行動
指令性は選好の一種と捉えるっぽいのですが、今回は逆にしてしまいます。
つまり、という選好を最大限充足する行動をとすると、
(2)
「xさんが合理的で、xがという選好を持っている」
「xさんは、を指令される」
としておきます。
で、選好にも指令性にも共通の性質として、指令された行動について、妨げる要因が無い場合には、その行動を実行に移すという特徴があります。
したがって、
(3)
「xさんがを指令される」
「xさんはを実行する」
とします。
ベースは、伊勢田(2012)のp.61-62あたりです。
「わたしはいまAをするべきである」という道徳判断にわたしが同意し、物理的・心理的にAをすることが十分可能でありながら、しかもAをしないならば、わたしの同意は誠実なものではなかったことになるだろう。*2
や
わたしがAよりBを選好し、しかもそれを妨げる別の選好などがないならば、わたしは実際にBを選択するはずである。 *3
のあたりです。
2-3. 合理性と状況把握
「合理的である」と言えば、論理的だったり冷静だったりするようなことを指すのですが、ここでは、「その行動をしたときに何が起こるのかをきちんと把握している」という要素を加えておきたいと思います。
今回の設定では、やが行動に移されたときに、何が起こるのかを知っているということです。もっと言うと、自分に起こることのほかにも、相手に起こることについても知っているということです。
ということで、
(4)-1
「aさんは合理的である」
「aさんは、自分の選好(と)のほかに、とについても知っている」
となります。
また、bさんについても同じことが言えます。
(4)-2
「bさんは合理的である」
「bさんは、自分の選好(と)のほかに、とについても知っている」
これは、ヘアの意見の佐藤解釈を冨田がまとめたもの*4をベースにしているので、よりにもよってひ孫引きです*5。
私たちが道徳判断を下す際、合理的であるためには、判断のもたらす結果を理解していなければならない。そして、この結果には、自分の選好にもたらす影響だけでなく、他人の選好にもたらす影響も含まれるからである(佐藤 2012:132)。*6
2-4. 条件的反省原則
最後は、条件的反省原則と呼ばれるものです。
今回は、
(5)-1
「aさんがとを知っている」
「aさんは、とを実際に選好として持つ」
と考えます*7。同様に、
(5)-2
「bさんがとを知っている」
「bさんは、とを実際に選好として持つ」
とします*8。
伊勢田(2012)では、
ヘアによれば、われわれが他人の経験について知っているとは、相手がその経験に対してもつのと同じ選好を現在の自分のなかに再現するということである。*9
となっています。
3. 導出
以上の道具立てから、選好功利主義を導いてみます。
まず、「aさんが合理的で道徳的である」と仮定します。
→(4)-1から、aさんはとととを知ることになります。
→(5)-1より、aさんはとととを選好として持ちます。
→設定と(2)により、aさんは選好の最大充足のため、を指令されます。
・・・という訳で、「aさんが、合理的で道徳的ならば、を指令される」ことが導かれます。
同様の推論をbさんについても行うと、「bさんが、合理的で道徳的ならば、を指令される*10」を導くことができます。
この2つより「自分がaでもbでも、自分が合理的で道徳的ならば、を指令される」と言えることから、(1)を適用して「『を指令される』は道徳的である」を導けます。
は、とととの間の選好を最大に充足するような行動でした。
これは、aさんの元々の選好(と)と、bさんの元々の選好(と)を最大に充足するような行動と同じものであるはずです。
したがって、これは選好功利主義の主張と同じものとなります。
4. その結果
上の議論から見ると、(1)から(5)-2の道具立てから選好功利主義を導くことはたぶん可能です*11。私が記号をガシガシ使った議論が上手ければ、もっとすっきりと示せていたと思いますが、そこそこの達成度はあると思います。
なので、この議論が適切かどうかは、(1)から(5)-2までの前提が適切かどうかに掛かってくることになりますが、これについては十二分に検討の余地があるでしょう。
例えば、小さいところでは、(4)-1&(4)-2の合理性に関する議論は、結果を重要視する功利主義に有利な前提をおいているように見えます。
問題は(5)-1&(5)-2の条件的反省原則で、「知る」にそこまで強い意味を求められるかは議論の余地が非常にたくさん多いにあると思われます。実際、条件的反省原則が妥当かどうかが、結構議論になっていて、あまり有力視されていないっぽいです*12。
間違いなく強い主張ではあると思います。が、道徳的な行為を行いたいと考えている人が無視してよいような内容とも言い切れないのが微妙に厄介に見えます。
なお、ヘアの普遍化可能性と、今回使った反転可能性の間にどのくらい開きがあるかについても、本当はちゃんと考えなければなりません*13。
・・・と前提についての要検討事項は山積みですが、導出過程が自分で納得できたのでOKとします。
おわり
*1:自分がbのときの「aが〇〇するよう指令される」は、「aに〇〇するよう求める」くらいの感じで捉えておきたいと思いました(感想)。
*2:伊勢田(2012)pp.60-61
*3:伊勢田(2012)p.61
*4:冨田絢矢(2020)「普遍化可能性と実践の論理 前期R・M・ヘアの言語行為論的アプローチを再構成する」倫理学年報、Vol.69, pp191-204
*5:不真面目にもほどがある
*6:冨田(2020)p.194
元の佐藤(2012)は、佐藤岳詩(2012)『R・M・ヘアの道徳哲学』勁草書房
*7:自分の選好とについては、最初から持っているとする
*8:自分の選好とについては、最初から持っているとする
*9:伊勢田(2012)p.65
*10:bさんは、aさんにするよう求める
*11:伊勢田さんがpp.78-9で導出のギャップとして挙げている問題点は、選好と行動の間の関係に関するもので、(2)とか(3)の妥当性に関係していると思いました(感想)。
完全に個人内の選好であっても、「歯医者のことは考えないようにしよう」のように、選好の打ち消しとして機能しうる選好はあり得るように思います。
*12:伊勢田(2012)pp.73-6
*13:「固有名詞が出てこない」から反転可能に至る道のりを実は理解していません。なので、色々すっ飛ばして反転可能性テストを用いました。