私達は理解し合えるか?~愛について

夏目漱石は"I love you"を『月がきれいですね』と訳すべきと言った」という話が無出典っぽいというのは、だんだんと知られてきたと思われるというお題です。

togetter.com

なので、ラブ&ピースみたいな話は一切出てきません。

 

 

1. 明治と現代の状況について

夏目漱石の謎の逸話について調べていくと、英文の小説へのメモ書きに、
『"I love you,Signora Laura."―Vittoria p.113.此I love you ハ日本ニナキformulaナリ』
と記載されていたという話が出てくる。

 

anond.hatelabo.jp

 

原文は、

'I will excuse myself to you another time,' said Vittoria. 'I love you, Signora Laura.'
'You do, you do, or you would not think of excusing yourself to me,' said Laura.

となっている*1

※英語が出来ないので、特に言えることはありません。


さて、「海外におけるよく見る言い回しだけど、日本に対応するものが存在しない」とか「そもそも概念自体が当時の日本語の中に無い」という事象は、たぶん明治期には出てきていたと思われる(上の増田参照)。

しかし、現代の我々*2は、"I love you"を見かけたとしても、(自分では使わないけど)どうにかおおむね理解しているはず。どのようなシチュエーションが"I love you"と言っていいものなのかを説明しろと言われても出来ないだろうが、「愛している」ということを言ったのだなということは分かっている。

 

ちょっと変則的な例として、

togetter.com

の中に出てくる、

ファイナルファンタジーX』でヒロインが消えゆく主人公に対して、最後に「ありがとう」って呟くシーンで、英語版の翻訳は当初「Thank you」だったけど、担当者が「英語圏ではここはI Love You以外あり得ません」と言って実際その通りになったって話が好きです。

 

https://twitter.com/tarareba722/status/620857957161406464

を参考について考えてみます。

例えば、英語版の"I love you"を先に見たとしよう。
このときに「うーん...、『此I love you ハ日本ニナキformulaナリ』」と思うだろうか。

 

別にそういうことはなく、結構ちゃんと伝わるように見える。

なので、日本語的には無いような "I love you" であっても、現代では割とニュアンスは伝わると見てよいだろう。

 

と言う訳で、ここでは"love"を「愛」と訳すことについて、現代では割と上手くやっていけているという結論としたい。

...したいです。

 

2. もっと昔の場合

明治期において苦労があったということは、それ以前はどうだったのか調べてみる。

 

新訳聖書では、神への愛や隣人への愛が語られるシーンがある。

例えば、マタイの福音書22章では

37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

38 これが最も重要な第一の掟である。

39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

とある(新共同訳*3)。

 

この箇所は明治元訳では、

37 イエス答けるは爾心を盡し精神を盡し意を盡し主なる爾の神を愛すべし

38 これ第一にして大なる誡なり

39 第二も亦これに同じ己の如く爾の隣を愛すべし

40 凡の律法と預言者は此二の誡に因り

となっているため、すでに愛と訳されていたことが分かる*4

 

ちなみに欽定訳聖書では、

37 Jesus said unto him, Thou shalt love the Lord thy God with all thy heart, and with all thy soul, and with all thy mind.

38 This is the first and great commandment.

39 And the second is like unto it, Thou shalt love thy neighbour as thyself.

40 On these two commandments hang all the law and the prophets.

となっているため、該当する語はloveである*5

 

ギリシャ版を見るとΑΓΑΠΗϹΙϹと書いてあり(シナイ写本*6)、ϹはΣだと思うので、αγαπησιςなのだと思います。

・・・αγαπωっぽいけど、この活用は何?

 

テクストゥス・レセプトゥスでは、αγαπησειςだった*7ので、よく分からないけど、αγαπωを活用したやつではないかと思われます。

 

ラテン語ウルガタ)だと、

37 Ait illi Jesus : Diliges Dominum Deum tuum ex toto corde tuo, et in tota anima tua, et in tota mente tua.

38 Hoc est maximum, et primum mandatum.

39 Secundum autem simile est huic : Diliges proximum tuum, sicut teipsum.

40 In his duobus mandatis universa lex pendet, et prophetæ.

なので*8、diliges→diligoっぽい。意味は、尊重する~愛するの辺りらしい。

...amareじゃないの?

 

といったところで日本語に戻ると、ドチリナ・キリシタンという鎖国前の時期の問答集(なので福音書の該当箇所そのものではない)では、

一にはたゞ御一体のでうすを万事にこえて御大切にうやまひ奉るべし

二には我身のことくぽろしもをおもへと云事是也

と書かれていて、現代の聖書で「愛」という部分を「御大切」と訳していたらしいということが分かる*9

なお該当箇所は、原文(葡?)ではamarasaみたいな感じっぽい*10


訳語のチョイスを見ていると、明治期の人々だけでなく、ヨーロッパでも「愛」をどう記述するか苦労していたのでは...?

 

コトバンクアガペー」を見ると、「アガペー」はラテン語でamorかcaritasらしい。

Wikipediaアガペー」では、英語の場合も古くはcharityだったりするらしい。

でも、古い写本のマタイの福音書22章37や39では、Lufaって言っているものもある*11

名詞と動詞で違うのか?


しかし、古い時代に訳語のチョイスでのブレがあったとしても、現代では"Love"の概念はちゃんと通じているように見える。

 

3. 仏教的な愛

仏教的な愛も、正直よく分からない概念だが、またコトバンクとかWikipediaあたりを見ると、「ものごとを貪ったり、執着すること」を指すこともあるようである*12

 

十二因縁の「無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死」の中に見られるようなものらしい*13。(が、漢訳仏典を探してはいません)

 

この手の「愛」は、サンスクリット語でトリシュナーというらしい。サンスクリット語印欧語族なので、同じ印欧語族の遠い親戚の言語に同系の言葉を持つかもしない。

...と思って調べてみたところ、英語ではdryとかthirstとかdesireが挙がっていた*14。なので、loveとは完全に別系統の由来を持つ語であることが分かる。

 

現代において、このニュアンスを含めて「愛」を使ったとしても、たぶんまぁまぁ通じるだろう。

 

4. まとめ

現代の愛は、このような違いを内包できるように進化してきた言葉であることが分かる。

そして現代の我々は、ニュアンスの違いを上手く操って、しゃべったり書いたり、相手の言うことを理解したりしている。

古い時代にはLoveに対応するような概念が無かったとしても、ヒロインが消えゆく瞬間に「ありがとう」ではなく"I love you"と言ったとしても、現代の我々は相手の使った「愛」という言葉を理解できるし、自分でも「愛」という概念を使える。


ここで見たように、全く馴染みのない言葉を導入するときに、既存の概念を上手く調整してどうにかするということは、あり得る話である。

最近は、新しい言葉をカタカナ語として輸入することが多くなっている。しかし、その場合も中身を既存概念の微調整によって説明するというようなケースも考えられるだろう。

 

と言うわけで、概念的な違いは創意工夫で超えられるし、言葉は進化できる、という結論にしたい。

 

もちろん見当違いことをしてしまうと、全く通じないということもあり得る。ハンプティ・ダンプティみたいなことをやると、現実では総スカンを喰らう恐れがある。

月がきれいですね」を"I love you"の意味で使うには、シチュエーション作りも含めて、結構上手くやらないと成立しないだろう。